この家の母親の頭の中はどんなふうになっているのだろうと、我輩は疑問に思う。気違いではあるまいか、、、。というのも、以前、こんなことがあったからである。
この家の母親は以前から、yahooの掲示板に熱中している。この母親は、小泉政権のイラク自衛隊派遣に反対して、政治の掲示板に何度も投稿しているのである。
yahooの掲示板を使用したことのある者は承知しておるであろうが、活発な議論の展開されている掲示板に投稿すると、すぐに反論がなされるという具合である。この家の母親も、ぐうたら主婦であるものの、根は負けず嫌いであるから、自分の投稿した記事に反論が寄せられると、「こんにゃろう、、。」と剥きになって一生懸命、再反論を考えるという次第である。
この家の長男も剥きになっている母親をからかって、「そんな奴に再反論もできないのか。」などと煽り立てる。また、いつまでも反論に頭を悩ませている母親に煮えを切らして、「どれどれ。」と一緒になってパソコンを覗き込んだりする。
この長男坊は我輩の知る人間の中では最も道化者と呼ぶにふさわしい人間である。道化者といっても、例えば太宰治氏等のように人間に対する怯えからわざと道化者を演じているというのではなく、本当の道化者なのである。以前は、この長男坊のことを非凡なる説得力の持ち主などと書いたこともあったが、あれは我輩の買い被りであった。
今、太宰氏について触れたこともあり、少し太宰氏のことを述べれば、太宰氏の小説は、我が猫族の間においても、広く読まれておる。そして、我輩もその愛読者の一人である。我輩が太宰氏の『人間失格』を初めて読んだのは、我輩がまだ若かった頃であるけれども、そのときは人間にもこれほどデリケートで傷付きやすい者がいるのだなと感心した次第である。
やや話がそれたが、こんなふうに、この家の母親は、大学卒業後もふらふらしている長男坊と一緒になって、yahoo掲示板に熱中しているのである。
そんなある日、この家の母親はこの家の父親と夫婦喧嘩をして、憤慨して家出をした始末である。喧嘩の原因は、この家の父親が浮気をしているとか何とかいうことであったが、とりあえずこの家の父親が浮気をしているかどうかは別として、とにかく、母親は家を出て行ったわけである。
といって、翌日にはちゃんと帰って来た。昨日の怒りは嘘のようにけろりとしておる。母親は長女に「昨日は、どこに泊まったの?」と尋ねられると、
「いやあ、それが、聞いて欲しいわけ。」
と、意味ありげなことを言う。無論、我輩も何だろうと思って、側へ近寄って話を聞くことにした。母親は、目を大きく見開きながら、話し始める。
「昨日、最初は車でT市のビジネスホテルに行ったわけ。でも、何か、そのホテルが陰険な雰囲気なわけ。フロントのボーイも陰険な感じで嫌だったわけ。それで、まあ、でも、とりあえず、チェックインして部屋に行ったわけ。そして部屋で本を読んでいたら、何か隣の部屋で変な音がするわけよ。何か、工事をしているみたいな音が。」
すると、その話を聞いていた中学生の次女が、
「そんなのだたの工事じゃん。何が面白いの。」
と、文句を言う。母親は、続けて言う。
「いや、問題は、何でそんな工事をしているかってわけよ。お母さんは何か変だなと思ったわけ。そしたら、はっと思いついたわけ。もしかして、壁をドリルで壊してお母さんのことを殺しに来るんじゃないかって。」
そう言って、少し興奮している様子である。いつものぐうたら状態と違って目が爛々と輝いている。ただ、母親の話している様子が生き生きとしていても、話している内容が内容であるからやや痴呆的な感じがする。すると、
「ふん、本気で言ってるのか。誰が狙うっていうんだい。面白いじゃないか!」
と、長男が嘲笑う。
「だって、以前、yahooの個人情報が漏洩したっていう事件があったじゃないの。 それでその時お母さんもyahooを使ってたから、お母さんの情報も漏洩したわけ。お母さんはyahooの掲示板で政府のイラク自衛隊派遣に反対する記事を何度も投稿してるでしょ? その情報が右翼に渡ってて、ちょうどその泊まろうとしたホテルが右翼団体の経営するホテルだったんじゃないかって思ったわけ。」
と、母親が言う。
「どういうこと?」
と、次女が尋ねる。
「だから、ホテルのチェックインをする時にさ、住所とか氏名とか書くでしょ? その情報でお母さんのことがばれたんじゃないかと思ったわけよ! お母さん、反論ばかり書いてたから、右翼が怒ってて、それで、お母さんの命を狙いにきたんじゃないかって思ったわけよ! フロントにいた陰険なボーイが幹部に通報したんじゃないかって!」
「わけ」という言葉が一々耳につくが、母親の興奮はここへきて絶頂に達したようである。しかし、長男坊は、「へええ。す、すげえ。」とおどけて、鼻から馬鹿にしている。そして、じっと黙って聞いていた次男に、「なあ、善治、何とか言ってやれよ。」と言う。
因みに我輩の観察したところによると、この家の次男坊は、まだ若くして中々の知識人であり、端整な容姿をしていており、家族の中でも一目置かれた存在である。ただ、プライドが高く、それゆえ少し近寄り難い印象を与えている。我輩も、他の家族の部屋には気ままに侵入できるが、次男坊の部屋となるとやや緊張し萎縮した気持ちになってしまうのである。
「その辺の推理小説よりは面白いと思うよ。」
と、次男が言う。どうやら次男も小馬鹿にしているようである。長男は、母親の方を向いて、どうだと言わんばかりに「あはは」と笑う。すると、ふいにまた次男が口を開いた。
「でも、全くありえないと言い切ることはできないし、実際、独裁国家なんかでは十分ありうる話さ。現代社会における情報革新は、政治的にも重要なテーマを内包しているからね。つまり、1980年代以降、新たな情報技術としてインターネットが急速に普及した。このことによって、市民が掲示板などで政治的発言にさらされるようになり、その発言に大衆が操作されたり、世論の形成に影響が出てきたりする恐れが生じた。実際、中国では、ネットによって団結した市民が暴動を起こさないように、政府がネット規制に関与しているでしょう。確かに、日本は中国と違って民主主義国だから、あそこまで大胆な関与はしないさ。でも、世論とインターネットが情報革新により強力に連動し始めた今、政府としてもそのことに全く無関心ではいられないのではないのでしょう。つまり、ネット上で政府を批判する者の個人情報をチェックして、場合によっては、何らかの対応をしてくるということはありうる話なのさ。権力というものは、常にその反対勢力を鎮圧しようとする。これは、疑いようもない政治的事実さ。今の日本は一応平和だから、そこまでしなくてもいいというだけなんだと僕は思うよ。」
この次男の話には、みな聞き入っているようであった。ようであったという推量でしか言えないのは、我輩も次男坊の話に聞き入っていて、周囲を観察する暇がなかったためである。
「ほらほら、善治もそう言ってんじゃないの。」
と、今度は母親が長男の方を勝ち誇ったように見る。すると、再び、次男が話し出した。
「でも、今回のホテルでの出来事は、やっぱり違うと思うよ。もし、本当にホテルぐるみでお母さんを殺害しようとしたなら、何もわざわざ隣の部屋から壁に穴を開けるでしょうか? それよりは、普通にマスターキーで部屋のドアを開ける方がいいでしょう。」
「そうそう。」と相槌を打ったのは、長男坊である。母親は、ロダンのような姿勢で頭を抱えて考え込んだ。しかし、すぐにロダンのポーズを解体してまた話し出した。
「とにかく、お母さんは急に恐くなって、すぐチェックアウトしたわけ。お金はもう戻ってこなかったから、無駄金使っちゃった。でも、命には換えられないから。」
「で、どうしたの? どこに泊まったの?」
と、次女が不安そうに尋ねる。次女はどうやら少し母親の側に立っているようである。
「うん、それで、もう仕方ないから、車の中で寝たわけ。ああ、本当に恐かった。」
と、母親が答える。そして、「やっぱり我が家が一番だ。」と自分から家出をしていて、ノー天気なことを言う。
我輩はこの一部始終を観察していたけれども、この家族の会話の様子は喜劇のようでもあり、また悲劇のようでもあった。もう少し冗談めかして話してくれれば辛うじて喜劇で終ったかも知れぬのに、終始必死に真顔で語っていたために、悲劇の感を拭い捨てられなくなった。
ただ、我輩がこの母親の話で忍耐しかねたのは、この母親が右翼の逆襲を食らったと思った時に、一目散にホテルから退却した点である。我が猫族にとっては、如何なる理由であれ、逃亡は不名誉な行為である。我輩だったならば、部屋の壁に穴を開けて責めてこようとしている敵がいたならば、敵の逆襲を食らう前に、自分の部屋のベランダから隣の部屋のベランダに侵入し、勇猛果断にそこから部屋に突撃したであろう。部屋の窓が閉まっていたならば、固い物でもぶつけて割って入るまでである。そして、いざという時のために日々家の壁で研いでおいた鋭い爪をもってして、敵の顔に、にゃにゃにゃっと痛恨の一撃を食らわしたであろうに。 (終)
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